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今年は明治150年である。明治という偉大な時代への回顧が、日本国民の中で広くなされなければならない。日本が日本人の単なる集合体ではなく、日本国民によって形成される国家であるためには、「明治」という国家から多くのものを受け継がなくてはならないからだ。司馬遼太郎の『「明治」という国家』を思い出すまでもなく、「明治」は日本人が打ち立てた栄光の国家であった。

昭和10年代は明治70年代である

幕末に西洋文明と遭遇した日本は激動の時代を経て、嘉永6年の黒船来航から数えるならば15年かけて明治維新を成し遂げた。この歳月は、日本民族が「明治」という時代に向かって歩むにあたって与えられた試練であり、ユダヤ民族に「荒野の40年」があったことを思い出すならば、日本民族にとっての「荒野の15年」であった。

そして、幕末維新期に日本の伝統という台木に西洋文明が接木された。その結果、坩堝(るつぼ)のような明治初年の時代となった。明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布までの明治初年は、「異形の明治」とも呼ぶべき可能性に満ちた時代であった。その可能性の中から、栄光と悲劇に彩られた明治文化が創造されていったのである。

明治から平成の今年に至る、この150年のほぼ半分のところにあたる時代が昭和10年代である。今日、昭和10年代というと、「戦前」とか「軍国主義の時代」とか言われるが、昭和10年代を明治70年代と捉えることで近代日本の精神史の風景は大きく変わって来るのではないか。明治は45年で終わり元号では大正となったが、「明治の精神」は明治70年代である昭和10年代にようやく成熟を迎えたと言っていいのである。

日本の伝統という台木と西洋文明から学んだものの接木がうまくいき、七十余年経って血肉化された。そして、西洋文明の猿まねでもなく単なる日本的な伝統によるものでもなく、近代日本の独自の文化として成熟したのである。

苦難の時代に花開いた芸術

音楽で言えば、第1世代である滝廉太郎が夭折(ようせつ)した後、明治19年生まれの山田耕筰と明治20年生まれの信時潔が活躍する。この信時潔が、昭和15年即(すなわ)ち明治72年に作曲したのが交声曲「海道東征」であった。美術の方では、青木繁という天才が、これも夭折した後、梅原龍三郎や安井曽太郎などが出て来る。梅原の傑作「北京秋天」は昭和17年の作品であり、安井が「深井英五氏像」を描いたのは昭和12年である。文学では、北村透谷という詩人が明治27年に25歳で自殺した後に島崎藤村などにより明治文学が形作られていく。

滝廉太郎、青木繁、北村透谷というそれぞれの分野における3人の天才が、みなそろって若死をしていることを思うと明治という時代がいかに苦難の時代であったかに改めて襟を正す気持ちになる。このような明治の痛切な偉大さに、今日の日本人は心打たれなければならない。

昭和10年代になり文学の方でも成熟期を迎えたが、それは明治以来の苦闘を経てこそであった。島崎藤村の『夜明け前』、永井荷風の『濹東綺譚』、谷崎潤一郎の『細雪』、川端康成の『雪国』、小林秀雄の『無常といふ事』、保田與重郎の『日本の橋』などが書かれたのである。

明治45年の後、確かに15年間の大正があった。しかし、大正という時代は近代日本という悲劇的な時代の中のいわば小春日和のようなものであった。その中で、うつらうつらしていたのである。例えば明治天皇崩御の後、乃木大将が殉死したことに対して、大正を代表する志賀直哉と武者小路実篤はその意義が理解できなかった。

敗戦で更なる成熟が妨げられた

それが昭和10年代になると「明治」が取り戻されていく。小林秀雄は、昭和16年の「歴史と文学」という講演の中で「僕は乃木将軍という人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思っています」と語った。保田與重郎は、昭和12年に『明治の精神』という長篇評論を書いて岡倉天心と内村鑑三を「二人の世界人」とたたえたのであった。

日本の不幸は、この昭和10年代即ち明治70年代に成熟した日本の文化が、10年もたたずに敗戦を迎えたことにより断絶させられてしまい、更なる成熟が妨げられたことである。そして戦後七十余年にわたって、この時代は「戦前」とか「軍国主義の時代」というレッテルを貼られてきた。例えば交声曲「海道東征」の近年の復活を、「戦前」の復活という風に捉える人もいるのである。しかし、これは、明治70年代の復活なのであり近代日本の文化のピークの復活なのである。

今必要なのは、戦後七十余年続いた「占領下」の文化を拭い去り、「独立自尊」の「明治」の70年代である昭和10年代に成熟した文化を引き継いでいくことではないか。明治150年の今年は、明治70年代に改めて繋(つな)がり、日本文化の真の成熟とは何かに深く思いを致す年としなければならない。