「明治の日」に関するQ&A


Q1.「文化の日」が制定されてから70年、文化勲章が天皇陛下から親授される日でもあり、「読書の秋」・「芸術の秋」を象徴する一日という実態からすれば、現状通り「文化の日」のままで良いのではないですか?

A.文化勲章が制定されたのは昭和12年ですが、最初の授与は同年の4月28日に行われています。11月3日に親授されるようになったのは「文化の日」制定後の昭和24年からです。つまり、「文化の日」と文化勲章との関係性は後付けに過ぎません。
「読書の秋」・「芸術の秋」という表現が広く用いられるようになったのは大正時代に入ってからと言われています。多くの日本国民が読書や芸術に親しむことができるようになったのは、明治時代の半ば以降、購入し易い廉価な文庫本が登場したり、帝国博物館で芸術作品の展示がなされるようになったりした結果です。その観点から見れば、我が国における近代文化の出発点として明治時代を見ることもできます。
現在、11月3日を含む11月1日から7日までの間は「教育・文化週間」とされ、国民文化祭を始めとする諸行事が展開されています。また、その初日である11月1日は「古典の日」です。この「古典の日」は、『紫式部日記』に由来し、平成24年に国の制定する記念日(北方領土の日や終戦の日と同様)とされました。「古典の日に関する法律〔法律第81号(平成24・9・5)〕」の第一条には、「この法律は、古典が、我が国の文化において重要な位置を占め、優れた価値を有していることに鑑み、古典の日を設けること等により、様々な場において、国民が古典に親しむことを促し、その心のよりどころとして古典を広く根づかせ、もって心豊かな国民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与することを目的とする」と定められていますが、これでは「古典の日」と「文化の日」とは如何なる関係性にあるのか判然としません。
それより、11月1日の「古典の日」と11月3日の「明治の日」を包括するものとして「教育・文化週間」を位置づけなおしたほうが伝統を受け継ぎつつ、時代に合わせて革新してきた先人たちの歩みを国民に理解してもらう契機となると考えます。

Q2.「明治の日」が制定された暁には、「明治」と「昭和」は祝日の名に冠せられることになりますが、「江戸の日」や「大正の日」はありません。これは不公平でないのですか。

A.時代区分は、社会の変化を理解し易くするために行われるものです。一般的には、国家の形成を以て原始から古代へ、封建制の確立を以て古代から中世へ、絶対的覇者の登場を以て中世から近世へ、封建制の崩壊を以て近世から近代へと移行したと考えられています。
その上で、政治権力の中心地に着目して、古代が大和(古墳)・飛鳥・奈良・平安の4つに、中世は鎌倉・南北朝・室町・戦国の4つに、近世が安土桃山・江戸の2つに分けられました。なお、近代における政治の中心は一貫して東京であり、区別が出来ないため、元号により明治・大正・昭和・平成と時代区分を行っています。つまり、江戸時代と明治時代とは「~時代」という呼称こそ同じですが、同列に扱うべきものではありません。
なお、元号は、特定の期間に対して君主が定める称号です。これは、中国の前漢王朝に始まり、我が国のみならず朝鮮半島やベトナムなど北東アジア一帯に広まった風習ですが、現在では我が国にのみ残っています。明治維新以後、君主の在位中は元号を変えないという一世一元の制が確立し、併せて元号を以て天皇の号とすることも定められました。
現在の日本国憲法において天皇は象徴と定められていますが、吉國一郎内閣法制局長官は「わが国は近代的な意味の憲法を持っておりますし、その憲法に従って政治を行う国家でございます以上、立憲君主制と言っても差しつかえないであろうと思います」〔第71回国会参議院内閣委員会(昭和48年6月28日)〕と答弁しています。また、昭和54年6月には元号法が成立しました。従って、元号は現行の法制度においても有効であり、それを祝日の名に冠することに何の問題もありません。現に、平成19年からは4月29日が「昭和の日」と定められました。
「明治の日」が制定された暁には元号が付された祝日が2つになりますけれども、明治時代および昭和時代のみが顕彰に値し、その間に存在する大正時代は顕彰に値しないということではありません。けれども、両者は近代日本の歩みにおいて様々な側面で大きな意味を有する時期であり、特に機会を設けて顧みることが将来に資すると私たちは考えています。

Q3.明治時代には影の部分もあり、顧みるに相応しくないのではありませんか。

A.明治時代は、西力東漸の動きに巻き込まれた島国が戊辰戦争や西南戦争という内乱を克服し、日清戦争や日露戦争という対外戦争に勝利した結果、不平等条約の改正を成し遂げて欧米列強と対等な関係を築き上げた輝かしい時代です。
とは言え、あらゆる物事には二面性が存在し、明治時代も輝かしいばかりではありません。倒幕に伴って成立した新政府の要職は薩長土肥各藩の出身者によって占められる一方、奥羽越各藩の出身者は冷遇されました。また、明治政府が行った神仏分離・廃藩置県・学制発布・徴兵令・太陽暦の採用などの政策に対する反発が存在したことは確かです。
しかしながら、それは新政府の人事や政策に対する批判・抵抗であり、強固な独立国家を形成し、西洋列強に負けない国とすることじたいを否定していたわけではありませんでした。
また、殖産興業政策を推進する中で、公害が発生したり、貧富の差が拡大したりしました。こうした中で田中正造が明治天皇に直訴をしましたが、直訴状を執筆したのは社会主義者として知られた幸徳秋水でした。後に、彼は明治天皇の暗殺を計画したとして処刑されましたが、この時点では天皇を中心とする政治体制を否定しようとまでは考えていなかったのです。
私たちは、様々な困難や軋轢はありながらも、明治天皇を中心として国民が団結し、民族としての自立を守った時代として明治時代を理解し、我が国の今後について考える契機として「明治の日」を位置づけており、一方的な賛美の対象として考えているのではありません。