【大原康男】真偽分かつ「戦後」への評価(『毎日新聞』平成29年11月24日朝刊・論点 「保守」とは何か)

「保守」とは何を保守するのか。突き詰めれば「国体」、すなわち日本固有の「国柄」を守るのが保守である。その中核には天皇のご存在がある。祝詞に「神集へ、神議(はか)り」とあるように、神代から一人の神がすべてを決定するのではなく、八百万(やおよろず)の神々が協議されるのがならわしだった。その伝統は明治天皇が示された「五箇条の御誓文」の「万機公論に決すべし」に受け継がれた。アジアでいち早く議会制政体が導入され、近代化の礎となったゆえんである。

「保守」を名乗るのであれば、天皇を崇敬する心は皆同じである。しかし、問われるのはその中身だ。押し付けられた日本国憲法が規定する象徴天皇制なのか、あるいは日本の伝統、歴史に基づく天皇なのかでまったく違う。それは昨年の天皇陛下の譲位(退位)をめぐる議論でも改めて痛感した。

ほとんどの日本人が抱いている、ご高齢となられた陛下にゆっくり休んでいただきたいという思いは私も共感する。しかし、「終身在位」の制度は、皇位継承に伴う戦乱など不幸な歴史を踏まえ、明治時代に「歴史の知恵」として明文化された。それを簡単に捨て去っていいのだろうか。我が国の歴史上なかった女系天皇の議論もそうだ。現憲法下の基本的人権、男女平等の視点だけで、伝統を変えてしまうことを強く懸念する。

昨年の「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の専門家ヒアリングでもそうした意見を陳述した。これに対して「陛下のお言葉に無条件に従うべきだ。これが『承詔必謹(しょうしょうひっきん)』だ」と保守論者からも批判された。だが、「間違っている」と思料すれば、礼を尽くして申し上げる「諫諍(かんそう)」も忠誠の道。

他方、悲しいことも耳にする。保守を自称する人たちや、リベラルと目される識者のなかには「天皇陛下は護憲の立場である」というニュアンスで語る者もいるからである。これこそ天皇の「政治利用」でなくて何であろう。

保守の目標は、6年8カ月間の占領政策でゆがめられた日本を本来の姿に戻すことだ。具体的には自主憲法の制定であり、東京裁判史観の是正である。「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍晋三首相も同じだろう。安倍氏は「日本を、取り戻す」を掲げる。私が参加する「日本会議」も美しい日本の再建を願うものだ。

共産党独裁の中国が秦王朝の事績を持ち出すように各国指導者は栄光の時代を国の理想に掲げる。日本においては明治維新である。来年は維新150年。「昭和の日」が制定されたように、本来は明治天皇誕生日の「明治節」であった「文化の日」を「明治の日」と改める国民運動を盛り上げたい。

さて、立憲民主党の枝野幸男代表もリベラル保守を名乗る時代なのか、その中には護憲派も含まれる。かつて「保守」が侮蔑を込めて「右翼」と呼ばれたが、いまや「革新」は消えて左翼は「サヨク」に成り下がった。そして迎えたのが一億総保守の時代だが、便乗保守やエセ保守もいる。古希を迎えた日本国憲法下の「戦後」をどう評価するのか。それを軸に真と偽がふるい分けられることだろう。【聞き手・隈元浩彦】

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【新保祐司】明治の歴史的意義知る祝日に(産経新聞平成28年10月31日「正論」欄)

【正論】明治天皇と神武天皇のつながり 「文化の日」を明治の歴史的意義知る祝日に 文芸批評家・都留文科大学教授・新保祐司(産経ニュース)screenshot_20161031-083436
去る10月3日、大阪で交声曲「海道東征」が再演された。戦後70年に当たる昨年の11月に作曲家・信時潔の没後50年も記念して、出身地である大阪で演奏会が開催された。本公演、追加公演とも大入り満員であった。それを受けての再演となったが、今回も盛況で深い感動が会場にあふれた。

≪本格的に復活した「海道東征」≫

今回の再演は、この埋もれていた名曲が今後、各地の演奏会で取り上げられるようになる一歩であろう。「これは一人の人間にとっては小さい一歩だが、人類にとって偉大な飛躍である」という月面着陸の宇宙飛行士が残した有名な言葉をもじっていうなら、この復活は大阪の一つのホールで行われた小さな一歩だが、日本人の精神的覚醒にとっては大いなる飛躍をもたらすものとなるに違いない。

そして、来年の4月19日には東京で演奏会が開かれる運びとなった。会場は東京芸術劇場で、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団である。一昨年の熊本での公演から始まった「海道東征」の文字通りの「東征」が、ついにここまで来た。この「東征」は、この曲を聴いた日本人に、「海道東征」のような作品を封印してきた「戦後的なるもの」と精神的に戦うことを呼びかけているのだ。

「海道東征」は、神武天皇の東征を題材にして北原白秋が作詩し信時が曲をつけた作品だが、戦後生まれの私は神武天皇についてそれほどは知らなかった。そんな私にとって、この夏に刊行された『神武天皇はたしかに存在した』(産経新聞出版)は興味深い本であった。昨年、本紙に『「海道東征」をゆく』として連載されていたときから愛読していたが、今回1冊の本になったものを通読すると、神武天皇の東征から即位までの建国神話がよく分かる。

さらに、本書の特長は、副題に「神話と伝承を訪ねて」とあるように、神武天皇の東征の足跡と事績を実際に取材して、その土地に残る伝承を記しているところにある。こういうふうにさまざまな地方に、伝承が今でも鮮やかに伝えられていることにとても感銘を受けた。何か西日本の地図が、精神的な深みを一段と増して見えてくるようであった。本来、日本地図をこのように歴史と伝承に覆われた立体的な像として思い浮かべなくてはならないのである。

≪危機にこそ国家の始まり考えよ≫

本書の序章は「日本の始まりは、神武天皇と東征と即位にある」と題されている。この「日本の始まり」を戦後の日本人は、あまり想起してこなかったのではないか。しかし、国家が大きな危機に見舞われたとき、回顧しなければならないのは、国家の「始まり」なのである。

明治維新のとき、当初、王政復古とは「建武の中興」に復帰するということが考えられていた。しかし、岩倉具視の顧問であった国学者の玉松操の意見により「神武創業」の根本にまで遡(さかのぼ)るということになったのであった。かくして明治維新は偉大であったのである。明治は明治として偉大であったというのでは足りない。明治は、「神武創業」に基づく理念から出発した時代であったから偉大なのである。

昨年開催された「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」という展覧会で展示された竹内久一の木像彫刻「神武天皇立像」は、明治23年の作品だが、作者の竹内自身が明治天皇の「御真影」を基に制作したと述べている。明治天皇は、「神武創業」の根本に遡ることにおいて、神武天皇と直結していたのである。

≪遥かなる神武創業を回想せよ≫

同展覧会には、作者不詳の「大元帥陛下御真影」という絵も展示されていた。石版画が縦長の軸装に仕立てられていて、最上部には旭日旗の間から神武天皇が出現している。その下に明治天皇による御製「古の文見るたびに思ふかな おのが治る国はいかにと」が書かれ、その下にイタリア人画家キヨッソーネによる有名な「御真影」を基にした明治天皇像が描かれている。

日本の古代史において、英雄と呼ばれうる存在は、神武天皇と日本武尊とされるが、紀元前4世紀の英雄アレクサンドロス大王について、紀元2世紀のローマ人が著した『アレクサンドロス大王東征記』がある。神武天皇もアレクサンドロス大王も「東征」したのである。神武東征のハイライトの一つに、八咫烏(やたがらす)の登場があるように、アレクサンドロス大王の東征にも、2羽の烏が先導役を務めたことが出てくるのは興味深い。

11月3日の「文化の日」を「明治の日」とする機運が高まっているが、明治とは明治そのものが栄光の時代であったのみならず、明治天皇と神武天皇のつながりによって歴史的意義が深いのである。来る平成30年は明治維新150周年である。実現が待たれる「明治の日」に回想するのは、明治の45年間だけではなく、遥(はる)かなる神武創業なのだ。そして、やがては11月3日に、全国各地で「海道東征」の演奏会が開かれる時代の来ることを祈念するものである。

(文芸批評家・都留文科大学教授・新保祐司 しんぽゆうじ)
(産経新聞平成28年10月31日「正論」欄)

【大原康男】いま「明治の日」制定すべき意義(平成27年11月10日)

【正論】いま「明治の日」制定すべき意義 国学院大学名誉教授・大原康男

去る11月3日、玄関先にマンション用として少し小ぶりに作られた国旗を揚げながら、この日をなぜ「文化の日」と謂(い)うのだろうかとの疑問があらためて頭を過(よぎ)った。

たしかに「国民の祝日に関する法律」(昭和23年)は11月3日を「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日と規定し、この日には宮中で文化勲章の親授式が行われている。また、この日を中心にして文化庁芸術祭が催されることもあって、今日ではほとんどの人が何のこだわりもなく受け入れているかに見える。

 ≪元は明治の天長節だった≫

しかし、昭和12年に制定された文化勲章の受章者の発令日は一定してはいなかった。当初は4月29日前後が多く、それが11月3日に固定され、受章者に対する宮中伝達式(平成9年からは宮中親授式)が行われるようになったのは「文化の日」という祝日が誕生してからのこと。したがってこの祝日の趣旨と11月3日という日づけの間には何の必然性もない。なぜこんなことになったのか。

そのためには近代以降のわが国の祝祭日の中で11月3日にはどのような由来と履歴があるのか、振り返ってみる必要がある。明治6年、政府は「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(太政官布告第344号)を発し、これまで久しくシナ風の五節句を中心に据えてきた祝祭日をわが国の歴史や伝統に沿って抜本的に改めたが、新たに祝日とされた中に紀元節とともに天長節があった。言うまでもなく、明治天皇のご誕生日である。その日が11月3日だった。

明治天皇が崩御されて大正天皇が践祚(せんそ)されると天長節は8月31日に移った。一方、先の太政官布告は廃止され、それに代わって制定された「休日ニ関スル件」(大正元年勅令第19号)に基づいて、先代の天皇の崩御日を祭日とする先帝祭は孝明天皇祭(1月30日)から明治天皇祭(7月30日)に移る。したがって御代替わりがあっても明治天皇に関わる祝祭日は依然として存在し続けたのである。

 ≪激動の世の苦楽を忘れず≫

ところが、大正から昭和へとさらに時代が変わると、天長節が昭和天皇のご誕生日である4月29日に移ったのは当然としても、先帝祭が明治天皇祭から大正天皇祭(12月25日)に移行したことによって、激動の世に苦楽を共にした明治天皇に因(ちな)む祝祭日が皆無となったことに、当時の人々は一抹の寂しさを禁じ得なかった。

かくして明治天皇に由縁(ゆかり)のある日を何か残してほしいという声が全国各地から澎湃(ほうはい)として起こったため、政府は昭和2年に、先記した「休日ニ関スル件」を改正、11月3日を「永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶」する日とし、「明治節」という名の新しい祝日を追加したのである。

しかるに、先の大戦の敗北によって状況は一変した。連合国軍総司令部(GHQ)は占領政策の一つとして祝祭日の全面的改正を日本政府に命じたからである。その詳細を述べる余裕はないが、かつて本欄でも略述したように、元始(げんし)祭(1月3日)・神嘗(かんなめ)祭(10月17日)のように完全に廃止されたものもあれば、「天長節」改め「天皇誕生日」のように、趣旨はほぼ同じだが、名称が変わったものもある。

この両者の中間に、国民の愛着が強かったために、日にち自体は辛うじて残ったものの、その趣旨が全く変えられてしまったのが「勤労感謝の日」(元の新嘗(にいなめ)祭、11月23日)と同じくこの「文化の日」なのだ。

 ≪憲法公布日が選ばれたわけ≫

周知のように、現憲法は昭和21年11月3日に公布された。なぜこの日が選ばれたのか、当時の内閣法制局の幹部はこう説明する。

GHQは新憲法の制定をひどく急がせたが、どうしても11月初旬になってしまう。公布から施行まで6カ月の周知期間が必要だから、11月1日にすれば、施行は翌年5月1日になってメーデーと重なってまずい。5日にすれば、5月5日の端午の節句に当たり、男女平等を謳(うた)う憲法の精神にそぐわない。そこでその中間をとって11月3日とした-。

果たしてそうであろうか。時の首相は皇室尊崇の念の篤(あつ)い吉田茂。新しい憲法は国の大変革をもたらすものではあったが、明治憲法の改正手続きに忠実に則(のっと)り、天皇のご裁可を経て公布された欽定憲法であるとの信念を持していた吉田としては、アジアで初めて近代的立憲国家を建設された明治天皇のご誕生日を敢(あ)えて選んだと思えてならない。

近代日本の興隆をもたらした明治の御代を想起する日-「明治の日」を「文化の日」に替えて新定する所以(ゆえん)について、これ以上多言を弄するまでもあるまい。

時あたかも11月11日に「明治の日推進協議会」が主催する国民集会が開かれ、田久保忠衛杏林大名誉教授の講演が予定されている。4月29日を「みどりの日」から「昭和の日」に改めた過去の成果を顧みつつ、この運動のさらなる進展を切に望みたい。

 

(おおはら やすお)国学院大学名誉教授

(産経新聞平成27年11月10日)

【湯浅博】東京特派員・人は呼吸、世はお礼 中尾哲雄(産経新聞平成27年7月7日)

昭和天皇が崩御して、それまでの天皇誕生日4月29日がなぜか「みどりの日」になった。なんで「昭和の日」ではないのだろう、とその当時から不思議であった。戦争の贖罪(しょくざい)意識から、事実をぼかす事なかれ主義なのだろう。まもなく、NPO法人昭和の日ネットワークの運動が実って、平成19年から「昭和の日」になった。

NPO法人の理事長は、時代の先端を行く情報通信事業のインテック(本社・富山市)のトップだと聞いて驚いた。この春に、同社の最高顧問を退いた中尾哲雄さん(79)である。風の便りに、中尾さんの会社が事故で失職する元自衛官を受け入れてきたと聞いて2度驚いた。

昭和46年夏のこと、岩手県・雫石の上空で全日空機と自衛隊機が接触して、ともに墜落した。全日空機の162人が全員死亡し、自衛隊機の2人が助かったこともあり、原因究明前から防衛庁は平謝りだった。中尾さんは、辞任した松島基地の寺崎弘飛行隊長をただちにスカウトした。

63年夏、潜水艦なだしおが横須賀沖で遊漁船と衝突した。遊漁船が沈没して30人死亡、17人が重軽傷を負う。事故直後から自衛艦はバッシングを受ける。海難審判庁は「両者の回避の遅れに同等の過失があった」とした。インテックはこの事故でも失職した山下啓介艦長を採用した。

中尾さんは2つの事件とも、事故原因とその処理に疑問を抱いていた。これらの事故を機に、インテックは中堅自衛隊員の1年間研修を受け入れた。

45年秋、陸上自衛隊東部方面総監部で起きた三島事件で、「楯の会」隊員と格闘した寺尾克美元陸将補も採用している。当時の寺尾3佐は、総監に短刀を突きつける森田必勝を組み伏せた。その直後、作家の三島由紀夫から背中を斬りつけられている。

「IT企業といえども、動かすのは人間ですからね。彼らの責任感に注目しましたが、そのきびきびした動きと統率力が社員の模範となりました」

中尾さんの男気は、人生の挫折とその超克からくるものかもしれない。中尾さんは国民学校2年のとき、妹と2人で横浜から疎開先の富山県・魚津に向かった。ところが直江津で逆方向の列車に乗ってしまう。途中の犀潟(さいがた)駅で降りて途方に暮れていると、地元のおばさんが2人を世話してくれた。

戦後、高校1年になってお礼の品をもって犀潟を訪ね、17軒の民家を聞き歩くが見つからない。その妹は、彼の通う魚津高校前で交通事故にあって亡くなってしまう。それらが、後の慈善活動のきっかけになっていく。

大学受験時代には、肺結核が彼を襲う。入院生活を経て、入学した富山大学内の寮で静養中に、寮の壁に書かれた先輩たちの哲学的な文章に励まされた。それらの筆者に40通の礼状を書いたら、次々に激励の返書が届いた。

「実はこれらの先輩が、大事な人脈になっていく」

大学を卒業すると大手の証券マンになった。すると先輩の一人から「俺の寮の後輩だ」と工作機械、不二越の創業者、井村荒喜(こうき)さんを紹介される。その井村さんから「実業につけ」と富山に連れて行かれて、経営指導員になる。

十数人で設立したインテックは、いまは社員6千人、グループ全体では1万5千人の会社に成長した。中国、韓国にも展開している。あちらは利益も出るが、煮え湯も飲まされる。

「韓国は10年たっても反日的なことをいうから5、6年でやめた。利益があるからいいというのでなく、呼吸が合わなければ」

中尾さんは午前4時に起きて、いまも毎日5、6通の手紙を書く。その多くが礼状である。次は「明治の日」の制定に照準を合わせている。(ゆあさ ひろし)