11月3日を「明治の日」に――。「文化の日」をそんな名称に改める祝日法改正運動が一部で熱を帯びている。「国家の独立を守り抜いた明治の先人に思いをはせる日に」と訴え、11月には東京で決起集会が開かれる。こうした動きに「戦後民主主義に反する流れ」と警戒する声も上がっている。
運動を進めているのは「明治の日推進協議会」(塚本三郎会長=元民社党委員長)。小田村四郎・元拓殖大総長やジャーナリストの櫻井よしこ氏らが役員になっている。2008年に発足し、文化の日を明治の日に改めることを求める国会請願のための署名集めや、世論喚起をめざす集会を各地で開催している。昨年の集会には、稲田朋美・自民党政調会長らがかけつけた。
今年11月11日の集会は、田久保忠衛・杏林大名誉教授が基調講演する予定だ。事務局によると、明治の日実現のための推進議連づくりを働きかけており、早ければ3年後の法改正につなげたいという。
役員の一人、大原康男・国学院大名誉教授は、明治天皇の誕生日にあたる戦前の「明治節」にちなんで、11月3日を「明治の日」と変える意義について、「明治天皇は近代国家日本をつくった一番の偉人。根拠があいまいな文化の日ではなく、本来の形に戻したい」と話す。
戦前の明治節は、国家の大事な行事、(1)元日の四方拝、(2)神武天皇が即位した日を建国の日とした紀元節、(3)天皇誕生日である天長節とともに、四大節の一角を占めていた。1927年、「明治天皇の偉業を永遠に伝えていくために」などとして制定され、官公庁、学校、軍隊などで盛大な祝賀式典がおこなわれた。
それが戦後、11月3日に日本国憲法が公布され、文化の日となる。11月3日が選ばれた理由については諸説あるが、暦の研究で知られた岡田芳朗・女子美大名誉教授(故人)の回想によると、戦後、再出発にふさわしい祝日を選ぶ際、文化国家の建設を目的とした祝日を加えたい思惑から文化の日が決まった。日取りを検討する中で、気候がよい明治節の日になったという。
なぜ今、明治の日にする必要があるのか。大原氏は明治の光と影を指摘したうえで、世界史的にも大変化をもたらした特筆すべき時代だったと、明治の重要性を強調する。
「中心は明治天皇であり、今の日本が明治の遺産であることを教育現場で教えれば、明治の日はおのずと実現に近づくはずです」
■「戦前回帰」警戒する声
明治の日実現をめざす動きについて、「戦前回帰」の政治的意図が隠されていると警戒する声もある。
著作に「国家神道と日本人」がある島薗(しまぞの)進・元日本宗教学会会長は「戦前のような国家神道的な社会に戻したいという流れの一つでしょう」。過去にも建国記念の日制定、元号法制化、昭和の日実現……。明治の日もその延長線上にあるという見解だ。
島薗氏によると、連合国軍総司令部(GHQ)は戦争直後、国家神道が信教の自由を圧迫したとして、国家と神社神道に切り離す神道指令を出した。ところが、天皇の祭祀(さいし)は不問とされ、国家神道は形を変えて生き残ったという。「一例が祝日。戦後、呼び名は変わりましたが、祝日の多くは皇室祭祀の儀礼が行われている日です」と指摘する。
過去の運動に照らせば、天皇の祭祀があるという前提で「戦前回帰」の動きが起こる。そこには神社本庁があり、他の宗教団体もあり、保守政党が合流する図式だという。「明治の日の運動も、立憲主義を切り崩して、いつの間にか、戦前の国家主義的な方向へと国民の意識を向かわせていこうとしているように思えてなりません」(藤生明)
■祝日、攻防の歴史
暦、祝日は時代に翻弄(ほんろう)されてきた。最近では、海の日(7月第3月曜)の現状維持派と、7月20日に戻し固定するグループのつばぜり合いが記憶に新しい。
海の日は、明治天皇の東北行幸で横浜港に帰港された7月20日が由来。「海洋国日本の繁栄を願う」として、1996年から祝日になった。
ところが、ハッピーマンデー制度の導入で03年から現在の形に。「祝日にはそれぞれ意味がある」などと固定化を求める超党派議連と、「3連休が減る」と危機感を強める観光業界側の間で攻防が続く。
最近、議論を呼んだのは2年前の4月28日に政府式典があった「主権回復の日」。サンフランシスコ講和条約が発効した日にあたり、祝日化の動きもあったが、沖縄選出議員らの反発を受けて、菅義偉官房長官が「祝日にすることまで考えていない」と明言した。