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 十一月三日は何の記念日なのか

ただいま御紹介に預かりました相澤でございます。実は私高校中退組で、高校二年生の十六歳の折、当時の進学中心主義の高等学校教育に反発を感じ、生意気にも退学届を出しました。周りのみんなに猛反対されましたが、唯一私の父親だけは「思い通りにやれ」と味方になってくれました。縁に恵まれ鎌倉の師子王学塾という私塾に入りました。明治・大正・昭和初期に在家日蓮主義を標榜した田中智學先生の高弟・山川智応先生が創設した塾でしたが、ここで六年間、鎌倉時代の仏教の大家である日蓮聖人を中心に仏教の教義や大系、その背景を学ぶ一方、国体というものの存在を研究することになりました。卒塾後は紆余曲折がありましたが、只今は展転社という出版社の会長をしておりますが、その前には二つの出版社の破綻を経験しました。今はその延長線上で思想運動に従事しております。

「昭和の日」運動は、草の根から始まり組織的な後ろ盾はなく始まった運動でしたが、幸いに神社本庁・神道政治連盟はじめ全国網の組織を持つ有志の御協力を頂き、一七〇万人の署名を集めました。しかし、衆参国会議員の過半数の賛成を得て法律を変えるのはかなり難しいことです。成立に至るまでに二度の廃案という挫折を経ましたが、平成十七年に法案が成立、天皇陛下により公布され、平成十九年から「昭和の日」と生まれ変わりました。

四月二十九日は「昭和の日」に改められた。では、十一月三日は「文化の日」のままでよいのか。この素朴な疑問から出発したのが「明治の日」推進の運動なのです。

明治天皇が崩御された後、平日となった十一月三日を田中智學先生が中心となり明治の時代を追憶すべき祝日に、署名活動はじめ国民運動が展開され、昭和二年に「明治節」が制定されました。昭和元年は僅かな期間であったこともあり、昭和天皇が初めて勅裁された法律は「明治節」制定だったのです。

戦後この「明治節」が何故か「文化の日」となってしまいました。明治天皇の御誕生日という元来在るべき名称の祝日に戻す、当たり前の主張なのです。

「昭和の日」の際は、「みどり」さんという女性がかわいそうだという珍癖をつけてくる人もいましたが、それかあらぬか今は亡き政治評論家の細川隆一郎さんは「銀座のクラブのママ・みどりさんが反対する」と「夕刊フジ」に揶揄しておられた記憶があります。

その次元といえば失礼ですが、「文化の日」に拘り、「明治の日」に反対する官僚たちがいるそうです。それは一部の文化庁のお役人で、看板が「文化」なものだから「文化」が無くなると困ると、何とも「非文化」的な理由で反対しているという話をある国会議員からお聞きしたことがあります。

 現行「祝日法」の制定過程

現在の祝日を定めたのは、「国民の祝日に関する法律」(以下、祝日法と略す)です。この祝日法は昭和二十三年七月二十日に公布、施行されました。そのおよそ一年前、昭和二十二年五月三日には日本国憲法が施行。その半年前の昭和二十一年十一月三日に日本国憲法が公布されました。従って祝日法は、日本国憲法を補完し、戦後体制を形作っていく重要な役割を果たしているのです。

いまの憲法記念日がなぜ五月三日かというと、十一月三日に公布され、その憲法を周知徹底するための猶予期間を半年置いた結果に過ぎないのは皆様ご承知の通りです。つまり五月三日に記念すべき謂われがあるわけではないのです。

昭和二十三年の祝日法成立当初は九つの祝日(元日、成人の日、春分の日、天皇誕生日、憲法記念日、こどもの日、秋分の日、文化の日、勤労感謝の日)が定められました。この祝日法を国体的に見るとき、GHQの圧力に悲憤慷慨するだけでは祝日法の正しい姿は見えてこないと思います。GHQにすべて法律を作る際はお伺いを立てなければならぬ上、憲法を押し付けられた事情の下、日本民族の伝統・歴史に立脚した祝日になんとか近づけたいという当時の政治家や官僚たちの暗闘があったことを忘れてはなりません。

日付を残すことで戦前の祝祭日に近づける意味を持たせようとした、独立の暁には名称は元に戻そうと、名を捨てて実を取ろうと当時の関係者たちが知恵を振り絞ったと見るべきと思います。

しかし、実際に担当した当事者たちは、GHQに遠慮気がねしてか、総理庁、宮内庁、文部省、外務省などの関係者を交えた会議で新しい祝日を選ぶ方針と基準を作っています。つまりは自主規制を働かせたわけです。二大方針―「新憲法の精神に則り、平和日本、文化日本建設の意義に合致するものであること」「国民の全体が、こぞって参加し、共に喜びうるものであること」―のもと、八つの留意点と四つの考慮点が具体的な基準とされました。これは「国家神道に由来し、国民生活との関係の薄いものは除く」「歴史的根拠の薄いものは再検討する」といった類いです。これらの基準をもとに衆議院文化委員会が提出した案では十一月三日を「文化祭」、参議院文化委員会案では「憲法記念日」という案が出てきました。

いずれも十一月三日という日付は残そうという意思があり、「元日」「天皇誕生日」「こどもの日」「勤労感謝の日」などその他の祝日も同様に祭儀など我が国の歴史や伝統に根拠を持つ祭日が新しい名前で残されました。しかしながら「紀元節」は「神話的期限の日であるからだけではなく、むしろそれが……超国家主義的概念を公認し、かつ一般占領目的に背くものだからである」とGHQが強く否定したため、抗す術がなく、その復活は後世に待たざるを得ませんでした。

「紀元節」すなわち我が国の建国をお祝いする日はなんとしても復活しなければならないというのが戦後の国体運動の中核として存在し続けたわけです。

二十年近く国民の苦労と熱望が注がれた「紀元節」は、昭和四十一年に「建国記念の日」として成立します。「建国記念日」を設置する祝日法改正案は、それまで提出と廃案が九回にわたり繰り返されていました。その後、強く反対していた社会党への妥協案として名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として「建国したという事象を記念する日」とも解釈できるようにしたのです。さらに日付自体は有識者による審議会に託し、政令によって定めるという妥協により、ようやく二月十一日とする政令が公布されます。今でも祝日法には二月十一日と記されておらず、時の内閣の思惑で「二月十一日から別の日付にしよう」としてしまえば国会を経ることなく変えられてしまうのです。「建国記念の日」とともに、「敬老の日」や「体育の日」の制定、そののちの「海の日」の制定、そしてハッピーマンデー制度など祝日法は様々な変遷を辿っておりますが、この「建国記念の日」と「昭和の日」は、我が民族にとって特筆大書すべき祝日法改正といってよろしいのではと思います。

 祝日法上の「文化」とは

繰り返しになりますが、「十一月三日」とは元来は戦後憲法が公布された記念日です。日本国憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」すると書かれている。その前文と同じ科白が「文化の日」の趣旨説明〔自由と平和を愛し、文化をすすめる〕に書かれているということは「日本国憲法」と「文化の日」が表裏一体であることを表しています。

「平和国家を目指す」という意味の「文化」である―これが「文化の日」の実体なのです。日本国憲法の理念からつくられている文化をお祝いし推進する日だということでもあるのです。そういった「戦後の自由と平和を愛」するだけが「文化」なのだという立場を認めたとして、ではなぜそれが十一月三日であるのかという疑問が生まれます。「文化の日」を擁護する人たちからはその答えは返ってきません。それはなぜか。近代日本を築いた御代、その時代を統べておられた明治天皇の御誕生日が十一月三日だからです。これがからくりでしょう。

「文化」と言えば、いいものだと皆が思うのです。実は私も「文化」とは関わりがすこしありまして、私の父が経営していたのが「関西文化服装学院」という学校でした。「文化」の恩恵を受けていたので「文化」に足を向けて寝られない立場ですが、その当時は洋裁が文化の最先端だったようです。

戦後の日本人に進歩をもたらしたものだけを「文化」として矮小化し規定するのであれば、それ以前に我が民族が培ってきたものは「文化」でなくなります。

 なぜ「文化の日」が問題なのか

そこで、現行の「文化の日」の問題点を挙げてみますと、まずは「名称の不適切」です。これは「明治節」を継承していないという点です。日本国家の近代化は苦難と栄光に基づいて築き上げられたものであり、西洋やアジアと比較にならないものがあり、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」などという限られた文言で言い表せるものではありません。「愛する」と言っても如何様に愛せばよいのかすら不明瞭極まりません。

まあ私も相澤の「あい」があるのでまんざらでもありませんが、言葉の意味で言えば、幕末期に「Freedom」や「Liberty」をどう翻訳するか、思い悩んでいます。一説によれば「自由」と最初に訳したと言われる福澤諭吉は当初「天下御免」と考えていたそうです。「天下御免」と訳されていれば面白かったでしょうね。天下御免党なんて出てきたりして。これは一例ですが、それほど日本文化の多様性をどう発揮していくかという苦悩があったわけです。さらに申し上げますと、中国共産党の社会科学分野の文献で使われる用語の八割は日本語から援用したものだそうです。「社会」や「経済」などといった言葉も日本の幕末・明治期に日本の先人たちが〔Economy〕なら〔Economy〕の持つ意味を熟慮に熟慮を重ねて慎重に「経済」と翻訳したのです。しかし、支那人は音を漢字にあてはめるだけです、こうした苦心はしてません。

平和という言葉について資料をしっかり渉猟したわけではありませんが、皇室におかれては「平和」より「平安」「和親」「安寧」という言葉が多く用いられているのではと私は思います。また、三種の神器の剣は邪なものを退けて平安を築く理念の表象と解すことが出来、日本国憲法のなかに表現される「平和」とは一線を画すものです。以上の理由から〔自由と平和を愛し、文化をすすする〕という趣旨は日本文化に根拠を持つものでなく、不適切といえます。

さらに「文化をすすめる」の「すすめる」とは何か。「進める」「薦める」「勧める」「奨める」など同音異義語はいくつも存在し、いずれの意味にとるべきか、これまた明確さを欠き、曖昧さを残している原因です。「文化」を発展進歩させる「進める」なのか、「文化」を推奨する「奨める」なのか。この二つだけを取ってみても全く意味が違います。ひらがなにすれば分かりやすくなると思いがちですが、全く正反対です。「みどりの日」も同様、何とでも解釈できるようにと官僚がこしらえたのでしょう。

支那から渡ってきた仏典は白文が多くて読解するのに日本人は苦労しました。解読する上でひらがなが発明されたのです。ひらがなは漢字とともに使われて活きるのです。それを踏まえれば「すすめる」だけでは日本文化に根ざした使い方ではないと言えます。

次に、主権回復後の政府および国会において改称の声が起こらなかった、この「政治の怠慢性」を取り上げたいと思います。しかし、ようやく今年の四月十日に衆議院予算委員会で田沼隆志衆議院議員が初めて国会で指摘し、答弁に立った菅義偉官房長官は「国会の議論を待ちたい」として国会に下駄を預けました。祝日法が作られる際、国会側が政府原案を拒否し自ら策定・審議して立案したという経緯を盾にしているのです。しかし、これはダブルスタンダードです。かつて「みどりの日」制定の際は、時の東大総長などでつくる有識者の諮問機関を政府内に置き、政府によって提案されたのです。都合の悪い時だけそう言うのです。

また四月十六日に西村眞悟衆議院議員は、安倍首相に対して衆議院予算委員会で「あの明治という激動を乗り越えた我々の先祖がひとしく仰いだ明治天皇のお誕生日を、明治の日として、国民の祝日として回復することは、歴史を回復することであり、すなわち日本を取り戻すことであります」と取り上げて頂きました。そののち、三名の国会議員が内閣委員会で質問して下さいました。

「昭和の日」審議の時、十一月三日も「明治の日」に改めようという国会議員はいませんでした。ただ「明治の日」という言葉を用いた国会議員はおりました。それは共産党の議員で、「昭和の日」の次は「明治の日」になるから反対だといったのです。これを受けて朝日新聞には同様の反対理由を詠んだ川柳が掲載されました。

そして、「昭和天皇への不忠」があります。これはどういうことかというと、文化勲章と「文化の日」の混同です。「文化の日」を認める立場からは文化勲章を授与される日だから「文化の日」なのだ、と誤解している向きがある。

文化勲章は、昭和十二年二月十一日に制定され、当初は四月二十九日の天長節に行われていました。発案者は当時の首相・広田弘毅とされていますが、明治二十三年二月十一日に制定された軍人を対象とした金鵄勲章だけでは公平を欠くとの昭和天皇の思し召しから始まり、第一回の授章は佐々木信綱、幸田露伴、横山大観など九名に授与されました。敗戦により金鵄勲章が無くなり、文武の文のみになってしまった。これは憲法の規定する「文化国家」、「文化の日」がもたらした弊害のひとつであり、一祝日の問題ではなく、日本国家にとり根源的な問題です。

 「文明」と「文化」、そして「国体」

そもそも「文化」とはいかなるものか考えてみたいと思います。「文治教化」、文を以て民を教え導き国を治める。漢籍としての「文化」とはこういう意味です。

他にも考えてみましょう。近代に西洋文明が入ってくる中で「Culture」をどう翻訳するかということで「文化」と訳した。しかし、「Culture」という西洋人が意識する意味の言葉は「文化」以外にもあるでしょう。例えば「知性」、「教養」、「精神」という言葉を用いても良いでしょう。もっと言えば「Culture」に表れている西洋人の意識は「文化」だけでは説明できないのです。我が国古来から培ってきた意識・概念で表現すれば「和の精神」ともいえます。「恥の文化」という言葉もありました。最近では「お・も・て・な・し」でしょうか。日本人の美的な精神的作用も「文化」には含まれるわけです。しかし、「自由と平和を愛する」のみの文化などというのは日本にありません。

「文化」というものが日本のみならず世界中で多種多様に捉えらており、一定していないものを「文化の日」という枠にはめ込むこと自体が無理があります。展転社で発売しております「新日本学」平成25年夏号〔第二十九号〕にこんな文章を黄文雄先生が寄せておられます。

文明は人工的に創出されたあらゆる有形、無形をも含む、すべての事物であり、人間の生活体系からのあらゆる規範と制度と考える。そして生活体系の規範と制度からの精神的な反映から生まれた価値体系が文化である。(〈日本文明の論点と争点〉)

つまり、規範と制度をともなわないものは文明には至らない営為であり、それがあるのが文化であるというわけです。そうすると、「規範と制度からの精神的な反映から生まれた価値体系」として学問、芸術や宗教を挙げることができます。

また別の見方として、評論家・福田恒存先生はこう述べておられます。

 一つは歴史的な意味、法隆寺とか桂離宮とか、飛鳥時代の仏像とか平安時代の絵巻など。「文化遺産」として残されてゐる思想、学問、藝術などを文化と称してゐる。二つには、「文化住宅」「文化風呂」「文化人」など、新しい、新式・便利なもの(『文化なき文化国家』昭和50年 PHP研究所 原文ママ)

後段の「文化」とは、成長したと言われる戦後に粗製乱造されたものを指す言葉として使われているわけです。「文化包丁」「文化鍋」なども然りでしょう。そして、その中に「文化人」というのがある。進歩的文化人ともいいます。この言葉は階級闘争史観によって支えられています。社会は下から上に進歩していくという意識のもとに見ているのです。そういう意識で「文化」を語っていることはこの粗製濫造された「文化」のほうだということは明らかです。古典を軽視するのが「文化人」ではないです。最近の韓国がまさにそうでしょう。日本統治下のものは全て排除し、さらに遡れば漢字を追放し、ハングルのみを使用する。これでは「非文化的な国家」といわれても仕方ありません。

最後に宗教と文化という見方です。実証主義的な歴史学の立場から仏教史を通して日本人の精神と日本文化を研究した辻善之助博士の本がここにあります。これは仏教が好きか嫌いかといった宗派観ではなく、歴史的な事実として日本文化と仏教との関わりを研究した書物です。

凡そ千四百年の間に於て、仏教は日本国民の精神ならびに物質生活の中に全く消化せられ、その肉となり血となつて、国民は日常生活の中に知らず識らず仏教文化に浸つてゐるのである。……日本文化と仏教の関係を論ずるといふことは、即ち日本文化の総てを論ずることになるのである。(『日本文化と仏教』昭和12年 大日本図書株式会社 原文ママ)

日本の思想・芸術・社会事業は仏教と切り離せません。例えばお風呂は、温室といってもともとお寺にありました。京都の東福寺に保存されていますが、いまのサウナのようなもので、除病に用いたのです。その除病としてお風呂を民衆に開放したのが光明皇后(聖武天皇の皇后)でした。その他にも仮名文字、印刷、絵画から道路や架橋に至るまで仏教の大きな影響により発展しています。

我が日本の文化を概観するに、「自由と平和を愛する」文化を捉えるのは浅ましい限りで、無理があることは明々白々です。多義的な「文化」、万般の事象をまとめる文化〔総合文化〕というものがあって、その文化から派生する個別の文化〔枝末文化〕があると捉えるべきで、いかなる時代が展開しようと時代ごとの文化は総合文化からの表出であると包容摂取してきたのです。すべての文化は国体から顕現しているものであり、元来日本にとって文化の対立はないのです。

その根本の総合文化を、私たちは歴代天皇を通じて拝することができるのです。各々の国民が枝葉文化の発展の一分野を奉行する、そのためにも皆さんととともに祝日を取り戻す運動「明治の日」制定を進めてまいりたいと思います。
(※本稿は、九月二十九日の講演速記をもとに採録)

〔第98回二宮報徳会講演会講演録として里見日本文化学研究所・日本国体学会発行「月刊国体文化」平成25年11月号に収録されたもの〕