『明治という奇跡』はじめに


 はじめに

 「降る雪や明治は遠くなりにけり」

 言うまでもなく俳人、中村草田男の句である。昭和六年(一九三一)一月の東大俳句会に出句、高浜虚子によって採択され同年三月号の「ホトトギス」に掲載された。
 その少し前のある日、大学生だった草田男は、子供のころ何年か通った東京・南青山の青南小学校を訪ねた。折から降りしきる雪の中、放課後の無人の教室をカーテン越しに見ていると突然、明治というあのなつかしい時代は永久に過ぎ去ったという感銘を覚え、詠んだのだという。

 だがその後、この句は「降る雪や」という季語の部分を置き去りにした形で「明治は遠くなりにけり」が慣用句のように一人歩きを始める。いわば意味もなく、時の流れの早さを語るために使われてきたのである。

 このことに誰よりも強く反発したのが、ほかならぬ草田男自身だった。句の成立から三十六年余りたった昭和四十二年(一九六七)五月、明治神宮の社報『代々木』に「『明治は遠く…』の句に就いて」という巻頭随想を寄せている(新人物往来社「別冊歴史研究 〈神社シリーズ〉明治神宮」〈平成四年〉に再録)。

 明治三十四年(一九〇一)生まれの草田男は、この句の成立について触れた後、こう述べている。

 「私はその青南小学校において……貴重な消えることのない根本精神を教え込まれ植えつけられたのである。それは『恥を知れ』という一精神であった。それは、直ちに以て『明治の精神』と唱えることができるであろう」

 「短時日ではあったが、私はハッキリと明治時代を生活したのである。何よりも私は、根深く明治時代の教育の恩沢に浴し、よって以て『明治の精神』を植えつけられたる者であることを自覚する」

 つまり遠くなったと感じたのは、明治という時代の「精神」だった。自ら「明治人」としての誇りがこの句に込められていたのである。さらに草田男は「日本人が真に頼もしかったのは明治三十七、八年頃までであったという声も聞かれる」とした後、次のように結ぶ。

 「本質的な意味においては、ゆめゆめ『明治は遠くなりにけり』であっては、相ならないものなのである」

 この句が詠まれたのは、明治天皇の崩御により明治という時代が終焉を告げてから二十年近くたった頃だった。現在まででは、百年余りという歳月が流れてしまっている。

 中村草田男による句に対する一文が書かれた後、司馬太郎の『坂の上の雲』により明治、とりわけ日清・日露期の日本については見直される機運も生まれたものの、大多数の日本人にとって「明治」はますます遠く感じられてきた。あまつさえ近年では明治維新を「過ち」とし、明治という時代をことさらに貶しめるような風潮さえあらわれている。

 だがあの帝国主義全盛の時代に、全く新しい国につくりかえることにより西欧列強の侵略から免れることができたのは、「奇跡」ともいえる快挙であったことは間違いない。それを実現したのは中村草田男が誇りとする「明治の精神」であり、また明治人たちの「気概」だった。

 たとえば数百年も続いた封建制度を一滴の血も流さず廃止、中央集権国家に変えたのは、武士たちの類希な自己犠牲の精神があったからだ。迫りくる西洋化の嵐の中で、明治憲法や教育勅語に日本の伝統的な「心」を守り込むことができたのは、明治天皇のご英断や日本の古典に深く通じた井上毅らの存在があったからだ。

 明治の最大の「奇跡」といえる日露戦争での勝利も、失敗すればいつでも「腹を切る」という胆力に満ちた軍人や政治家の一人でも欠けていたらありえなかった。むろん新しい国を守ろうという国民の団結心も「奇跡」を呼んだ。いずれも「恥を知れ」という明治の精神のあらわれだった。

 そうした事実の前には、明治維新を矮小化しようという一部の試みも色あせてしまうだろう。

 来年の平成二十九年(二〇一七)はその明治維新の起点ともいえる「王政復古の大号令」から百五十年となる。それを前に今、「明治の精神」をよみがえらすために、もともと明治天皇のお誕生日であり、かつて「明治節」となっていた十一月三日の文化の日を「明治の日」としようという運動が広げられている。

 個人主義や物質文明ばかりが猖獗を極める日本の精神状況のなかで極めて意義あることである。そのためにも、ひとつひとつの明治の国づくりの中に込められた「明治の精神」を追い求めてみたい。

 平成二十八年五月

産経新聞客員論説委員 皿木喜久