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10月23日に、政府主催の「明治150年記念式典」が憲政記念館で開かれた。国民に明治を振り返ることの大切さを知らしめる意義があったと思う。明治時代を回顧したくなり、明治神宮外苑の「聖徳記念絵画館」で開かれている明治維新150年記念特別展「明治日本が見た世界」を観(み)に行った。

≪悲劇的なまでに偉大だった時代≫

この絵画館は大正15年に、明治天皇と昭憲皇太后の事跡を後世に伝えるために建設されたもので、明治天皇の生誕から大正元年の大葬までの歴史的場面を描いた80点の壁画が年代順に並べられている。眺めていくと明治という時代が絵巻物のように回想される。

二条城での大政奉還の場面、江戸城無血開城をめぐる西郷隆盛と勝海舟の対談、大日本帝国憲法発布式など歴史の本で見たことのある絵画を現物で初めて見た。

これらの壁画は、当時の一流画家76人によって描かれているが、歴史画として明治という偉大な時代をよく描いていると感じられた。観終わった後に、心に強く浮かんでくるのは、明治という時代のなんと悲劇的なまでに偉大であったことよ、という感嘆である。

社会科見学なのか小学生の団体が来ていた。この子供たちが、明治以降の近代日本の歩みの偉大さとその底流にある悲しみを感じ取ってくれることを祈った。彼らの中に今後の日本を支える人物がきっと現れることであろう。

天皇が思い致した勤王のこゝろ

力作揃(ぞろ)いの中でも絵画として特に優れていると思ったのは、木村武山のものであった。武山は、岡倉天心門下の日本画家で、天心が茨城県北部の五浦海岸に日本美術院を移したときも、横山大観、菱田春草らとともにその地で画業に打ち込んだ。

絵画館に展示されている武山の絵は、明治8年4月4日の明治天皇の行幸を描いたもので、昭和5年、54歳のときの作品である。この日、明治天皇は隅田川の東側にあった水戸徳川邸を行幸した。現在は隅田公園になっているが、ここに水戸藩の下屋敷があったのである。公園内には「明治天皇行幸所 水戸徳川邸旧阯」と彫られた石碑が建っている。その隣には「花ぐはし桜もあれど此やどの世々のこゝろを我はとひけり」という御製の歌碑も建てられている。

武山の絵は、墨堤の満開の桜を画面のほとんど全体を埋めてしまうように描き、その桜を一番上の方に描かれた明治天皇が眺めているというものである。両脇には水戸徳川家当主、徳川昭武と宮内卿、徳大寺実則が控えている。この構図の大胆さにまず目をひかれる。それと日本美術院の画家の中でも優れた色彩感覚で知られる武山ならではの桜の描写が美しい。

明治天皇が、徳川御三家の水戸藩の下屋敷であった「水戸徳川邸」をなぜ「行幸」したのか。これには幕末維新期における水戸藩の悲劇的な役割が関係している。桜よりも感銘深いこの「こゝろ」を明治天皇は「とひけり」、行幸したのだからである。

それは、公園の縁のところに建てられているもう一つの石碑の存在を考えると分かってくる。その石碑とは藤田東湖の「正気(せいき)の歌」の碑である。昭和19年6月に作られたが、首都高速道路の高架下に忘れ去られたようになっている。

「此やどの世々のこゝろ」とは、水戸藩2代藩主の徳川光圀による『大日本史』編纂(へんさん)事業から始まるいわゆる水戸学の「こゝろ」であり、とくに幕末の9代藩主斉昭の頃の後期水戸学の精神である。光圀、斉昭ゆかりの書画、文具などをご覧になった明治天皇は、その勤王の「こゝろ」に思いを致したといわれる。そして、この後期水戸学の中心的人物が、東湖であり、その思想の中核は「正気の歌」に表現されている。

歴史の精神に根差した日本に

この詩は東湖40歳の作で、幕末において広く愛誦(あいしょう)された。「天地正大の気」つまり「正気」が日本の歴史を貫いていることを詠(うた)っている。「世として汚隆無くんばあらざるも 正気 時に光を放つ」と言う。日本の歴史には「世として」、つまり時代によって衰微することも栄光に輝くこともあるが日本の「正気」は必ず「時に」、その「時」が来れば「光を放つ」という信念を表明している。

明治天皇は、この「正気」の「こゝろ」を「とひけり」と詠ったのである。武山の絵の中で愛(め)でられていた桜は、東湖によって「正気」が発したものと詠われたものであった。

ここに、明治という時代が単なる文明開化の時代ではなく、深く日本の歴史の精神に根差したものであることが示されている。その根底にあるものが、「正気」であった。

「明治の日」という祝日が制定されれば、日本人が明治を振り返る機会となるだろう。「昭和の日」が昭和という激動の時代を回顧する日であるように、明治を記念する日が必要だ。それは日本の歴史において「正気」が「光を放」った時代を回想することにより、今日の日本にもその「光」を招来せんがために他ならない。