【石川水穂】歴史と伝統を踏まえた祝日を(産経新聞平成23年11月12日「土・日曜日に書く」)


 「明治の日」目指す集会

 文化の日の11月3日、東京・九段で、「明治の日を実現しよう!国民集会」が開かれた。この日は明治天皇の誕生日で、戦前は「明治節」として祝われた。その本来の祝日に改めたいと願う人たちの集まりだった。

 渡辺利夫拓殖大学長は「明治の意義~栄光と苦難~」と題する記念講演で、「国家と国民がともに坂の上の雲を目指して進み、目標を共有できた時代が明治だった」と述べた。

 渡辺氏はさらに、明治時代の傑出した指導者として陸奥宗光外相を取り上げた。日本が日清戦争後の下関条約で得た遼東半島の還付を露独仏から求められた三国干渉に対し、陸奥がこれを受け入れ臥薪嘗胆を期したことを「ポピュリズムにとらわれない迅速・機敏な判断だった」と評価した。

 また、大原康男国学院大教授は幕末の日米修好通商条約(1858年)などで奪われた関税自主権を回復したのが明治末の44年(1911)だったことを指摘し、「不平等条約是正のために明治の一世をついやした。明治は主権回復の時代だった」と強調した。

 集会では、「(11月3日は)明治天皇と一体となり国づくりを進めた、明治の御代を追憶するための祝日である」「文化の日などという曖昧な祝日ではない」とする決議が採択された。

 占領下で成立した祝日法
 現行の祝日法は昭和23年7月に成立した。それまでの「祝祭日」が皇室の行事に基づき、国家神道の色彩が強いとして、改廃を求めるGHQ(連合国総司令部)の勧告を受け、23年1月から衆参両院の文化委員会で審議された。

 GHQの意向に縛られない意見も出された。

 2月26日の参院文化委員会で、緑風会の三島通陽は明治節の存続を求める請願の趣旨について、こう述べている。

 「明治の御代は新生日本の躍動する生命の源であり、政治に、文化に、経済に、あらゆる面において永久に忘れることのできない時代である。故にわれわれはこの明治節というものを通じて明治時代を永久に思い出していきたい」

 6月18日の参院文化委員会では、民主自由党の徳川頼貞が旧祝祭日の「紀元節(2月11日)」について、「起源が非科学的であるという考え方もあるが、神話を神話として国民に伝えるのは差し支えないのじゃないかと考えたい」と述べた。

 2月11日は、初代神武天皇が即位したと伝えられる日だ。

 この間、総理府で世論調査も行われた。「祝日はどの日がいいか」との問いに、1位は「新年」(99%)、次いで「天皇陛下のお誕生日」(86%)▽「建国の記念日」(81%)の順だった。

 紀元節にGHQが猛反対
 だが、紀元節を建国記念日として残すことにも、GHQ民間教育情報局のバンス宗教課長は「たとえ、国会で承認されても、許可できない」と強く反対した。日本側は紀元節の存続を断念した。

 また、11月3日は現行憲法が公布された日で、参院側はこの日を「憲法記念日」にしたかったようだ。しかし、衆議院側で新憲法が施行された5月3日を「憲法記念日」、11月3日を「文化の日」としたいとの案が示され、参院側もこれに従った。

 文化の日の意義は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」と新憲法を意識した文言になった。

 旧祝祭日で「新嘗祭」だった11月23日については、衆参両委員会の打ち合わせ会で、「労働感謝の日」と「勤労感謝の日」の2案が出され、多数の支持で後者に決まったとされる。

 新嘗祭は、天皇陛下が新穀を神様にお供えし、ご自身もそれを召し上がる最も重要な宮中祭祀である。「勤労感謝の日」では、本来の意義が分らない。

 GHQは昭和23年3月まで、祝祭日の国旗掲揚を禁止した。

 東京裁判の起訴状伝達は昭和天皇誕生日の21年4月29日、東條英機元首相ら7人の死刑執行は当時の皇太子殿下の誕生日(現在の天皇誕生日)の23年12月23日に行なわれた。「バターン死の行進」の責任を問われ、マニラで戦犯として裁かれた本間雅晴元中将の死刑判決は旧紀元節の21年2月11日、銃殺刑に処せられた日は旧神武天皇祭の同年4月3日だった。

 いずれも偶然とは思えない。

 戦後の新祝日法は、そのような状況下で、日本側がGHQに精いっぱいの抵抗を示しながら成立した半ば不本意な法律といえる。

 その後、紀元節は昭和42年、建国記念の日として復活したが、文化の日や勤労感謝の日はそのままだ。日本の歴史と伝統を踏まえ、本来の祝日のあり方を再検討すべき時期が来ているように思われる。

(いしかわ・みずほ)産経新聞論説委員