【湯浅博】東京特派員・人は呼吸、世はお礼 中尾哲雄(産経新聞平成27年7月7日)


昭和天皇が崩御して、それまでの天皇誕生日4月29日がなぜか「みどりの日」になった。なんで「昭和の日」ではないのだろう、とその当時から不思議であった。戦争の贖罪(しょくざい)意識から、事実をぼかす事なかれ主義なのだろう。まもなく、NPO法人昭和の日ネットワークの運動が実って、平成19年から「昭和の日」になった。

NPO法人の理事長は、時代の先端を行く情報通信事業のインテック(本社・富山市)のトップだと聞いて驚いた。この春に、同社の最高顧問を退いた中尾哲雄さん(79)である。風の便りに、中尾さんの会社が事故で失職する元自衛官を受け入れてきたと聞いて2度驚いた。

昭和46年夏のこと、岩手県・雫石の上空で全日空機と自衛隊機が接触して、ともに墜落した。全日空機の162人が全員死亡し、自衛隊機の2人が助かったこともあり、原因究明前から防衛庁は平謝りだった。中尾さんは、辞任した松島基地の寺崎弘飛行隊長をただちにスカウトした。

63年夏、潜水艦なだしおが横須賀沖で遊漁船と衝突した。遊漁船が沈没して30人死亡、17人が重軽傷を負う。事故直後から自衛艦はバッシングを受ける。海難審判庁は「両者の回避の遅れに同等の過失があった」とした。インテックはこの事故でも失職した山下啓介艦長を採用した。

中尾さんは2つの事件とも、事故原因とその処理に疑問を抱いていた。これらの事故を機に、インテックは中堅自衛隊員の1年間研修を受け入れた。

45年秋、陸上自衛隊東部方面総監部で起きた三島事件で、「楯の会」隊員と格闘した寺尾克美元陸将補も採用している。当時の寺尾3佐は、総監に短刀を突きつける森田必勝を組み伏せた。その直後、作家の三島由紀夫から背中を斬りつけられている。

「IT企業といえども、動かすのは人間ですからね。彼らの責任感に注目しましたが、そのきびきびした動きと統率力が社員の模範となりました」

中尾さんの男気は、人生の挫折とその超克からくるものかもしれない。中尾さんは国民学校2年のとき、妹と2人で横浜から疎開先の富山県・魚津に向かった。ところが直江津で逆方向の列車に乗ってしまう。途中の犀潟(さいがた)駅で降りて途方に暮れていると、地元のおばさんが2人を世話してくれた。

戦後、高校1年になってお礼の品をもって犀潟を訪ね、17軒の民家を聞き歩くが見つからない。その妹は、彼の通う魚津高校前で交通事故にあって亡くなってしまう。それらが、後の慈善活動のきっかけになっていく。

大学受験時代には、肺結核が彼を襲う。入院生活を経て、入学した富山大学内の寮で静養中に、寮の壁に書かれた先輩たちの哲学的な文章に励まされた。それらの筆者に40通の礼状を書いたら、次々に激励の返書が届いた。

「実はこれらの先輩が、大事な人脈になっていく」

大学を卒業すると大手の証券マンになった。すると先輩の一人から「俺の寮の後輩だ」と工作機械、不二越の創業者、井村荒喜(こうき)さんを紹介される。その井村さんから「実業につけ」と富山に連れて行かれて、経営指導員になる。

十数人で設立したインテックは、いまは社員6千人、グループ全体では1万5千人の会社に成長した。中国、韓国にも展開している。あちらは利益も出るが、煮え湯も飲まされる。

「韓国は10年たっても反日的なことをいうから5、6年でやめた。利益があるからいいというのでなく、呼吸が合わなければ」

中尾さんは午前4時に起きて、いまも毎日5、6通の手紙を書く。その多くが礼状である。次は「明治の日」の制定に照準を合わせている。(ゆあさ ひろし)