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七月十五日午後一時三十分より、大阪護国神社において、
十一月三日の「明治の日」制定の必要性について話をさせていただいた。

その話を準備するに際し、
気になったのは、七月二十日の「海の日」の変遷の経緯であった。
明治八年七月二十日、
若き明治天皇は東北と北海道巡幸から最新の英国製洋式汽船「明治丸」に座乗されて、
東京湾に帰着された。
よって、その日を記念して七月二十日は「海の日」という祝日に定められた。
しかし、戦後は「海の日」は祝日から外されていた。
それが、現在のように、祝日として復活したことに関していささか思い出がある。
私は、その時、衆議院の内閣委員会理事であった。
そして理事会は、「海の日」を祝日として復活させる法案を審査にかける決定寸前に至っていた。しかし、その時、社民等の左側から、条件が出された。
その条件とは、「八月十五日」を「敗戦の日」として祝日にするのならば
「七月二十日」の「海の日」に同意するというものであった。
私は、まず自民党の理事から、その左側からの提案に関して意見が表明されると思っていた。しかし、何の発言もない。このままでは、「敗戦の日」が浮上しかねない。
そこで、私は発言した。
「世界の何処に、戦争に敗北した日を、祝日にしている国があるのか、馬鹿馬鹿しい」
これで、議論は終わり、「海の日」だけが、祝日として復活した。
「海の日」は、明治八年七月二十日に
明治天皇が「明治丸」で東京湾に入られた日を記念して定められたのだ。
ところが、だ。
現在、「海の日」は、明治八年七月二十日の明治天皇の記憶から遊離させられて、
単なる「休日」として扱われ、「連休」となるように仕組まれている。
今年で言えば、
七月十六日の日曜日の翌日である七月十七日が「海の日」で休みという訳だ。
連休が多ければ儲かると思った観光業界や旅館業界の陳情を受けて
自民党内の業師がこういう法改正をすんなり通したということだ。
利を求めて走る、国家観無き戦後の典型的な風潮である。

従って、この度、護国神社で
「明治の日」復活の話をするにあたり、
「明治の日」も、「海の日」と同じように、
民族の記憶から遊離させられて単なる「休日」の話となってはならないと思い、
冒頭に次のメッセージを作り配布させていただいた。
・・・      ・・・    ・・・
「明治の日」
を制定することは、
明治を偲び回顧するためではなく、
迫り来る国難を克服して、我が日本の存立を確保し、
誇りある未来を開拓するためである。
過去は、
過ぎ去った日付のところにあるのではなく、現在の我々とともにある。
従って、明治を取り戻すことは、
明治と現在の連続性を取り戻すことであり、
我々自身を取り戻すことである。
「明治の日」
を祝うことは、
悠久の太古から天皇とともにある
祖国と民族と大和魂を取り戻し、
我々自身の人生を取り戻すことである。

御民吾 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に 遭へらく 念へば
万葉集 天平六年 海犬養岡麿
・・・    ・・・    ・・・

我が国を思いそのアイデンティティーを見つめるとき、
次の二人の人物の語ったことを思い起こす。
一人は、先日亡くなった渡部昇一先生
「皇室と神社は、天皇と神社は
日本文明を日本文明たらしめている根源である」

もう一人はフランス人の社会人類学者クロード・レブィ=ストロース
「日本的特殊性なるものがあり、それは根源からしてあったのだ。
そして、それらが外部からの諸要素を精錬して、
つねに独創的な何物かを創りあげてきたのだ。
われわれ西洋人にとっては、
神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、そこでは誰もが、
歴史とも神話とも密接な絆を結んでいられるという点にあるのだ。」

万世一系の天皇は、
天照大神の天壌無窮の神勅に基づいている。
太古の神話に基づく元首を現在に戴いている国家が
日本以外の何処にあろうか。
よって、ここに、
天皇の祖神である天照大神を祀る伊勢神宮の内宮の前に、
昨年、サミットに参加したG7の首脳が集ったことには
実は深い文明論的意義があるのだ。

高貴なる明治
それは、神話と天皇の国日本の甦りである。
日本が誕生してから、
海ゆかば水く屍と、山ゆかば草むす屍と、
万葉集に歌を残した防人をはじめ、
多くの先人達が大和心、大和魂を残してきた。
明治維新と明治とは、
広大な大気中に散在する電気が
避雷針の一点に集中して
巨大なエネルギーとなって閃光と大音響を発する雷と同じように、
遥か太古からの我が国の歴史のなかに伝えられた無量の人々の魂と物語が
明治天皇の基に集中し、爆発して、
欧米列強の力を跳ね返し近代化を進める巨大な民族の力を生み出した時代である。
そして、昭和天皇が、
激動の昭和において貫かれたものは、
太古からの日本の連続性=明治と昭和の連続性=戦前戦後の連続性である。

また、このことは明治天皇ご自身の遺された意図そのものである。
明治三十四年四月二十九日、
ご誕生になった裕仁親王殿下を裕仁と命名されたのは
明治天皇である。
明治四十年一月三十一日、山県有朋が軍の中枢である「参謀総長」に推挙してきた
乃木希典陸軍大将を、
参謀総長にはせず学習院院長に任命されたのは
明治天皇である。
その時、明治天皇は山県に次のように言われた。
「近く、朕の三人の孫達が、学習院に学ぶことになるのだ」
そして、次の御製を詠まれた。
いさをある人を教えのおやにしておほしたてなむやまとなでしこ
明治天皇は、次に皇太子となり天皇となる裕仁親王殿下の教育を
最も信頼する武人、乃木希典に託されたのだ。
そして、乃木希典は、全身全霊を挙げて裕仁親王殿下に接してゆく。
大正元年九月、乃木希典学習院長は、
山鹿素行の「中朝事実」を
皇太子になられた裕仁親王殿下に渡し、よく読まれるように申し上げ、
十三日に明治天皇の御跡を追って夫人とともに殉死した。
翌日、乃木希典殉死の報を聞かれた裕仁親王殿下は、
「落涙された」
(昭和天皇実録より、実録に天皇の落涙を記してあるのはここだけである)。
後年、昭和天皇は、
「私の人格形成に最も影響のあったのは、乃木学習院長であった」
と語れれている。
ここに、明治天皇の思いとそれを受け継がれた昭和天皇を仰ぐことができる。
また、明治天皇の、
慶応四年(明治元年)三月十四日に、
「五箇条のご誓文」とともに国民に発せられた「国威宣布のしんかん」
そして、昭和天皇の昭和二十一年一月一日に発せられた
「新日本建設の詔書」と次の御製二首
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松そををしき人もかくあれ
冬枯れのさみしき庭の松ひと木色かへぬをぞかがみとはせむ
これらは、昭和と明治の連続性を示す詔書と御製である。

以上の通り、明治と昭和そして平成の連続性を確認し、
再び、東アジアにおける
明治の日清戦争と日露戦争の国難に匹敵する国難が迫る現在を見れば、
我らは、
明治の魂を甦らせて我が国の輝かしい未来を切り開くことを決意する以外にない。
ここに、十一月三日の明治天皇のご誕生日を
「明治の日」
に戻して明治の志を現在の志とするべき国家的必要性がある。

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